週末陰陽師 〜とある保険営業のお祓い日報〜 立ち読み

 

 角を曲がり、少し先のアパートの駐輪場に自転車を停める。
 雑草が伸び放題で、住居者も少なそうだ。
「うわぁ……」
 思わず声が出た。ひとりで飛び込みをやるようになって、独り言が増えたように思う。
「お盆明けだとなおさら、こういうところは、いるんだよねー」
 薄暗いアパートの階段には蜘蛛の巣が張っていて、足元は土埃が溜まっていた。
 荷物を持ち直し、二階に上がり、奥の部屋から飛び込みを再開しようとしたところ、その通路のいちばん奥に、「それ」はいた。
 やせこけて、ほとんどの髪はみすぼらしく抜け落ち、服はぼろぼろで性別も分からない老人が、隅っこに後ろ向きでたたずんでいた。
「こんにちは。こちらにお住まいの方ですか?」
 老人が真備の声に反応する。しかし、その振り返った顔の眼窩は漆黒の闇だった。
『オオオオオオオオオ……』
 老人が枯れ枝のような指先で目の前の家の扉を指さす。胸元がはだけてあばらの浮いた老人の肌が視え、さらに向こう側のコンクリートの廊下が見えている。
「こちらにお住まいなのに、家に入れてもらえないのですか」
 丁寧な口調で真備が尋ねる。
 老人が興奮したような声を発し、その姿が揺らめき、暗い閃光の形で真備の周りをぐるぐると動き、再び老人の姿を取った。
『わしを外に追い出して……、とんでもない、ばあさんだ……』
 老人が初めて人の言葉をしゃべった。眼窩は真っ暗なままだ。
「おばあさんはこのなかにいらっしゃるのですか」
『ああ、ああ、さっき買い物から帰ってきた。わしのメシも用意せん』
 老人が恨み言を連ねる。口調も滑らかになってきた。
 それはそうだろう。いまこの老人の姿が視えているのは、真備だけなのだ。
 この老人は、自分が死んだことすら分かっていない。いわゆる不成仏霊だと見切る。
 この世ならざる存在を視る力、俗に霊視とも言われる見鬼の才を真備は持っている。
 普段は日常生活を営むために見鬼を絞っている真備に、これだけしっかり視えるとは、この霊は結構念が強いのかもしれない。もっとも、真備が持っている能力はそれだけではないのだが。
 一応、平日は保険の営業マンとして働くことにしているんだけど、といいわけを考えるが、もうこれは見逃すわけにもいかない。ぐちぐちとしゃべり続ける老人の眼窩の黒さが気になる。亡くなって時間が経って、単純な不成仏霊から邪悪さが増して障りを積極的に起こす悪霊になりかかっているように視える。週末まで放っておけるかどうか。
 このまま放っておけば、本人にその気はなくても家族に障りを起こしていくことになる。
 本人も悪霊にはなりたくないだろう。
「普段は昼間からこういうことはしないんだけど、視つけちゃったからなあ」
 真備の声に老人の愚痴が止まった。
 真備が前髪を掻き上げ、メガネを外す。形の良い額とメガネの奥に隠れていた切れ長の美しい目に念を込め、目の前の老人の霊に意識を集中させた。
『おまえさん、いい男だね』
「ありがとうございます」
『若いころの鶴田浩二に似ているなあ。知ってるか。昔の俳優』
「おじいさん、最近、おばあさんがご飯を用意してくれないというお話でしたけど」
『そうなんだ。もう何日も食っとらん』
「不思議ですよね」真備が親身になって老人の声を聞いていた。
『贅沢は言わんから、飯と味噌汁くらいは用意して欲しい。あと漬け物』
「おかしいですよね。何日も食べてなかったら、普通は死んじゃいますよね」
 言葉に法力を込める。悪霊相手なら情け容赦なく調伏するが、まだ人間の意識が残っているおじいさんだ。出来るなら説得によってあの世へ旅立って欲しい。
 言霊となった真備の声が、老人の胸に刺さった。
『そう言えば……そうかもしれないなぁ』
「そうですよね」
『ひょっとして、わしは死んでしまったのか。何か葬式みたいなのを見た気もする』
「おじいさん、右手をこう、胸に突き立ててみてください」
 真備が自分の胸に右手を突き刺すような動きをすると、老人も血管と筋の浮き出た右手を、自らの胸に突き立てる。
 しかし老人の右手は、その胸のなかに吸い込まれた。
『なんじゃこりゃ』
「普通の人だったらそんなこと出来ませんよね。ということは」
『うーん。やっぱり死んでいるのかなぁ』
 そうつぶやきながら、老人は右手を胸に挿したり抜いたりしている。
 自分の死を受け入れることが出来れば、あの世への旅立ちはもうすぐだ─。
 そのときだった。
 ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ。
 真備の鞄のなかのスマートフォンが震えた。
 無機質な音が、集中していた意識に一瞬、差し込んできた。営業中は着信をバイブだけにしているが、霊との交流には十分すぎるほど邪魔になる。暑さでボーッとしていたか、と真備は舌打ちした。
 ――事務の西田です。今日提出してもらった書類、一カ所チェック漏れがあったんで、小笠原さんのロッカーに戻しました。チェック後、ご提出ください。失礼します─―。
 事務連絡が伝言される。その間にも、霊的なほころびが広がっていった。
 普段であれば、霊的な存在と接している最中はスマートフォンの電源も切って、外部からの霊的介入を防ぐために結界も張る。
 真夏の暑さと平日の昼間という真備にとってイレギュラーな時間での接触だったため、脇が甘くなってしまったのだろう。
 黒い煙のようなものが、老人の霊体にまとわりつく。
『オオオオオオ』
 それらは真備の霊力を察知し、老人の成仏を妨げに来た周囲の邪霊だった。
 老人の霊体が急激に醜悪な姿となり、悪臭を放つ。
 生ゴミが腐ったような臭い。いわゆる地獄臭だ。
 老人の霊体が急速に悪霊化し始めているのだった。
「これは、ミスったな」
 老人の霊体が真備の首を絞める。
 霊体に首を絞められても窒息はしないが、その攻撃的な念波が真備の心臓を締め上げた。
 しかし、その状態にあって、真備は老人の霊を憎みはしない。むしろ首を絞められながら、心中、老人の魂に詫びる。
 真備は鞄も資料も地面に置き、右手を刀印に結び、九字を切った。
「臨・兵・闘・ 者・皆・陣・列・在・前」
 早九字による結界で、これ以上の邪霊の介入はなくなる。
 そして、結界を張った以上、真備の姿も一時的に人間には見えなくなる。
 真備は下に置いた鞄から呪符を取り出した。黒と赤で複雑な文様と文字が描かれている。
「陰陽師・小笠原真備、邪霊どもに命ずる。その老人より疾く離れよ」
 涼やかな真備の目が厳しくつり上がる。右手の刀印に呪符を挟み、星を切った。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク」
 晴明桔梗と呼ばれるその五芒星は、陰陽道のスーパースターとでも言うべき安倍晴明が多用したことで知られる。
 陰陽道における最強の魔除けのひとつである。
「急急如律令」
 静かな気合いと共に呪符を老人の霊体に叩きつける。
 一閃。老人の霊体から黒い霧のようなものが遊離した。
 柏手を一つ、二つ、三つ。
 邪霊たちが真備の霊力によって地獄に叩き返される。
 すると、老人の霊体が、再び先ほどまでの穏やかさを取り戻した。
『いまのは何だったんだ』
「ちょっとした悪い虫でしょう」
 とはいえ、このおじいさんは邪霊と縁が出来てしまった。時間がなくなったのだ。
「おじいさんはすでにお気づきの通り、お亡くなりになりました。神仏の導きに従って、あの世へと旅立たないと、悪い霊に飲み込まれてしまいます。それは嫌ですよね」
『嫌に決まってるさ』
「私がお祈りしますので、導きの光に従ってください」
 真備が印を結び、千手観音真言を唱えた。
「おんばざらたらまきりくそわか」
 先ほど邪霊を調伏したものとは明らかに異なる光が降り注ぐ。
 これも肉眼で見える光ではない。
 しかし、霊体の目にはダイヤモンドと黄金を合わせたよりもまばゆく見える。春の太陽よりも暖かく、母の胸に抱かれるよりも安らかな幸福が霊体に染みていく。
 光のなかを、おじいさんが天に昇っていく。
 あばらの浮き出た老人がその光のなかで力を取り戻し、次第に若返っていった。
 ついには壮年の男に戻っていく姿を確認し、真備は結界を解いた。
 メガネをかけ直し、頭を数回振って、前髪を垂らす。何事もなかったかのような薄暗いアパートの廊下で一息つくと、真備は目の前のインターホンを鳴らした。
「こんにちは。エメリー生命の小笠原と申します。おひとりですか」
『そうです。主人が亡くなりまして』
「それはお寂しいですね。お仏壇に手を合わせさせていただきたいのですが」
 おばあさんがするすると家の鍵を開ける。真備の霊力ある言葉に、知らず知らず操られているのであった。
 真備がその家に入らせてもらったのは、保険の売り込みではなく、言葉通り先ほどの老人の仏壇に手を合わせるためであった。
 おばあさんはひとり暮らしだった。連れ合い、つまり、さっき真備が引導を渡したおじいさんに先立たれてもう二年だという。
 おばあさん曰く、子供は男の子がふたりだが、離れて暮らしていて滅多に会えない。孫の顔も見たいのだが、向こうのお嫁さんの手前、あんまり言えないし。云々。
 そんな話をおばあさんから聞きながら、真備は仏壇を見やる。仏壇にはおじいさんの顔写真が飾ってあった。
 八十歳で亡くなったとのことだが、写真はもう少し若く、七十歳くらいのときの写真を使ったという。そのため、さきほどのおじいさんの霊とは少しだけ違って見えた。
 おじいさん、と真備は心のなかで呼びかけた。
 おばあさんもいい人で、いい人生だったではないですか。来世でも幸福であることを心からお祈りします、と真心を込めて伝えた。
 外で小さく鳥の鳴く声が聞こえた。
 お茶を二杯ほどいただいて、真備はおばあさんの家を辞することにした。

 たまたま出会った老人の不成仏霊を無事にあの世へ送り届け、その家のおばあさんにお話を伺っていた真備だったが、世間様ではお仕事をしている平日の昼間である。
 当然ながらこの間、真備自身の生命保険営業の仕事は止まっていた。
 挨拶をして玄関のドアから出ると、革靴のかかとを踏みながら足早に離れる。
 この辺りならおばあさんの耳に聞こえないだろうというくらい距離を取って、つま先をとんとんと床に突きながら革靴を履き直す。
 軽く飛び跳ねるような姿勢のまま、鞄からスマートフォンを取り出す。
 おばあさんと話をしている最中から、何度か着信バイブが振動していたのだ。
「姉弟子からの着信だったのか」
 足早にアパートの階段を下りる。着信数五件。わりとお怒りかもしれない。
 外に出ると西日が目を刺す。おばあさんとの雑談で結構時間が経ってしまったようだ。
 真備は慌ててかけ直した。
「すみません、姉弟子。お客様と面談中で出られませんでした」
 開口いちばん、謝罪で臨んだ真備に対して、いかにも頭の切れそうな、それでいて何か面白がっているような女性の美しい声が返ってくる。
「御子神ゆかり。仕事中はちゃんと名前で呼びなさいと言ったわよね、小笠原くん」
「すみません、御子神さん」
「面談っていうのは、嘘ね」
「いっ」
「真備くん、平日なのに調伏していたでしょ」
 ゆかりが真備を下の名前で呼ぶときは、陰陽師として接するときなのだ。
いま「仕事中だ」と自分で言ったばかりのくせに、すぐに「姉弟子」として接してくる。こういうところが姉弟子様はズルいと思う。
 だったら、こちらも同じ陰陽師同士、改めて「姉弟子」と呼ばなければいけない。
「どうして分かったんですか、姉弟子」
「卦を立てたからよ」
「……姉弟子、営業途中に卦を立てたんですか」
「今日は保全回り一件だけだったから」
「保全ってことは、また追加の契約を決めてきたんですか」
 営業マンとしてはうらやましく思う。
「そうよ。三鷹の大崎さんのところ」
「で、どうしたのですか。何度も電話いただいたみたいですけど」
「それより、私の電話に出ないほどの調伏なんて、大丈夫だったの」
「調伏自体は簡単でしたけど、そのあとのアフターフォローというか」
 電話しながら停めてあった自転車の鍵を外す。
 鞄を自転車の前カゴに入れて、さきほどの老人の件を話した。
 一通り話し終えると、電話の向こうでゆかりが大きくため息をついていた。
「邪霊と半ば融合して悪霊化しかかった不成仏霊相手に、邪霊部分だけを調伏して不成仏霊にはきちんと成仏の引導を渡すなんて、相変わらず無茶苦茶ね」
「そうしないとおじいさんがかわいそうじゃないですか」
「普通ならそこまでいってしまった不成仏霊はまとめて調伏するものよ」
「はあ」
「私ならそうするわ。いえ、そうしか出来ない。まったく。自分がどれだけ規格外の陰陽師か分かってるのかしら」
 真備としては「はあ」としか応えようがない。
 おそらく遠目には、鈍くさそうな営業マンが電話で怒られているようにしか見えないだろう。ましてや、陰陽師同士で悪霊撃退と調伏について話しているなど想像だにするまい。
 と、ゆかりが吹き出した。
「ふふ。まあいいわ。で、本題。十八時からのミーティング、忘れてないわよね。普段は十五日だけど、今月はお盆があったから一日ずらして、今日十六日にやるんだけど、覚えてる? 調伏を始めると仕事の予定とか約束事とかその辺ぶっ飛ぶから、警告で電話したんだけど」
「……すっかり忘れていました」
「遅刻したら、前橋マネージャー、キレるわよ」
 真備は自転車のハンドルを掴んでいた左手を離して、慌てて腕時計を見た。
「やべっ」
 残念なことに、いまから国分寺駅まで自転車で走り、電車で三越前まで移動して日本橋のオフィスに戻るには、微妙に間に合わないかもしれない。
「がんばります」
「間に合うかしら」
「ちょっとだけ遅れるかもしれません」
 ゆかりのため息が聞こえた。今度は正真正銘の嘆きのため息だった。
「うまいこと時間を稼いでみるけど、期待しないでね」
 真備はスマートフォンをしまい、大急ぎで自転車にまたがった。