東京下町湯屋話 立ち読み

 

 東京の家賃はお高い。だから、利便性と価格を重視してしまえば、他は犠牲になるのは致し方がない。だが、入居二週間足らずで風呂釜が壊れるとは如何なものか。
 正直、あり得ないと叫びたい。
 だがしかし、現実は無情であった。
「あちゃ〜」
 ゆらゆらと立ち上る白い煙を見た瞬間、父の花村雁太は所在なさげに手を首に当てて低く呻いた。
 手も腕も、ついでに顔も、雁太は基本骨張っている。人並み以上に背が高いがその分、肉と厚みに欠けている。
 だがそれ以上に欠けているのは、危機感とか緊張感とか、そういう綾愛が、今、感じているものだ。
「こりゃ、駄目っぽいな」
 そんな事、言われなくても見れば理解る。
 理解るから、悲鳴を上げて呼んだのに。
「それだけ!?」
 つい、突っ込んで問うた娘の綾愛に、雁太はいや、と軽く苦笑した。
「一応、元栓とか、止めといた方がいいよね」
 いやそうじゃなく。
「直るの!?」
「それは俺に聞かれてもなぁ」
 とりあえず、不動産屋には連絡するから、と。普段通りの口調で続けられても正直困る。
 何故ならば。
「今、何時か知ってる? お父さん」
 既に夜の十時を回っている。少なくともこんな時間では不動産屋は開いてない。
「ああ、うん。だから、明日。ね」
 そう答える父の方は非常に常識的ではあるのだろうが、だがそれでは絶対駄目なのだ。
「それじゃ、今夜はお風呂に入れないじゃないっ!!」
「ああ、うん、そうだね」
「そうだね、じゃないっ!!」
 そりゃ、お父さんはいいかもしれないけど。と心の中で綾愛は呻く。
 年頃の女子としては、そういう訳にはいかないのだ。
 九月とはいえ、湿度も気温もかなり高い。しかも、今日は体育があったのだ。それなのに。
「お風呂に入らないなんてあり得ない!」
 キッと眦を上げて綾愛は言い切る。
 16歳の女子高生の極めて常識的なその主張に、雁太は一瞬目を剥いた後、決まり悪そうに苦笑した。
「つってもなぁ……」
 この時間だし、と続ける雁太に、綾愛は必死で食い下がる。
「でも、ここ東京だし。だから探せばきっと、こういうのも、二十四時間受け付けてくれるようなトコ、あるかもよ?」
 たぶん、きっと、いや絶対。ある。というかあって欲しい。
 切なる願いを胸に抱いて訴えると、雁太は、かもね、と小さく答えた。
 が、そう言ったその口で、更に、でもなぁ、と彼は続ける。
「このアパートは賃貸だし。修理費とか色々面倒だしなぁ」
「そんなの、緊急事態なんだもん。言って後で払って貰えばいいよ」
 かなり強気な発言だが、勿論、父に押しつけてしまう気でいるから言える台詞だ。ついでに、煮え切らない雁太の代わりに、もっと強い味方に頼る事にする。
 携帯端末。これで検索すれば大丈夫。
「お前……自分がしなくて良いと思うと、言うよなぁ」
 愚痴っぽく、見透かした事を言う父に、綾愛は画面を見ながら冷たく返す。
「だって、お父さんの仕事じゃない」
「まぁ、そうだけどね」
でもそれなら、と。雁太は言いつつ綾愛の手から、小さな器械を奪い取った。
「ちょっと貸して」
「……って自分の使えばいいでしょ」
 ついでにメールチェックとかするつもりじゃないのかと、睨む綾愛に、雁太は、違うと告げつつ器械を操る。
「そうじゃなくて。もうちょっと、現実的な解決方法はないかなぁ、とね……」
「なにそれ」
 単に面倒から逃げたいだけじゃないのかと。言外に返す綾愛に、雁太はつらつら言葉を続けた。
「だってなぁ。もし、運良く修理屋さんが見つかって、これまた運良くすぐ直しに来てくれたとしても、実際に使えるようになるのは何時になるか、って話な訳だ」
 確かにそれはそうなのだが。
「だから、急いで探そうと……」
 しているのではないのか、と。続ける途中で、いやそれよりも、と遮られた。
「こういうの、どう?」
 ひょいと差し出された画面の中にある文字は。
「公衆浴場?」
「うん。そう。お風呂屋さん。ここ、行こう」
にこやかに笑う雁太に、綾愛はなおも言い募った。
「でも、遠いんじゃ……」
 ただし、声の勢いはかなり削がれてはいる。
 お風呂自体は大好きだ。
 大きなお風呂が大好きだった記憶もある。
 子供の頃、祖母や従姉妹たちと一緒に何度か行った記憶はある。
 それでも躊躇いを覚えるのは、一人で入る勇気がないからだ。
 なにしろ東京は人が多い。
 田舎でさえ、入浴施設には人が居た。
 それも大勢。広い駐車場にはずらりと車が停まっていたし、ロッカーが林の如く連立している脱衣所には、ぎっしり人が詰まっていた。
 そんな中でたった一人、服を脱ぎ着する事を想像すると、軽く気が遠くなる。
 雁太の転勤にくっついて、三重の片田舎から引っ越して二週間の身としては、些か敷居が高すぎる。
 とはいえ流石にそれは口には出せない。
 故に、より現実的な杞憂、つまりこの手の施設は郊外にあり、車でもない限りこんな時間に行くのは少しばかり無理がある、という事を述べてみたのだが、父は軽く一笑に付した。
「いや、全然。桜館なら歩いて五分」
「え?」
「うん。びっくりだよね。凄いね。東京」
 ホントなんでもあるねぇ。と笑う父に、綾愛は半ば唖然として頷いた。

 確かにあった。あるにはあった。
 だがこれは、綾愛の知るそれとはかなり様子が違っている。
 まず、規模が小さい。
 駐車場は数台分しかないし、そもそも建物自体が三階建てで、大きな個人宅程度の敷地に建っている。
「ホントにここなの?」
 疑わしい事この上ないが、父は自信満々だ。
「そうだよ。ほら見て。あの煙突。いかにもお風呂屋さんって感じだろ?」
 言われて見れば、ビルの上には煙突が一本伸びている。
 それに、建物沿いに路地に入ってゆくと、入り口の所に下駄箱が並んでいるのが見えた。
「いいねぇ。木札が本物の木なんだ」
 この手のタイプの下駄箱は、居酒屋でもたまにある。だが鍵となる札がプラスチックの所が多い中、ここは木であった。
 どうやら父はそれがお気に召したらしいが、綾愛自身はその良さはさっぱり分からない。
 ただ使い古した感のある木の板を、仕舞い込んだ靴の代わりに手にしただけだ。
 それにしても、下駄箱の数もやはり少ない。ホントに規模は小さいようだ。
 そもそも上がり框が扉の外にある事自体変わっている。その先に下駄箱があり、扉は更にその奥だ。大きく開かれた上がり口とは裏腹に扉は一枚分で、続くロビーもこぢんまりとした広さしかない。
 ほんの数歩で番台の前まで辿り着く。
「二人、ね」
 言いつつ、父がポケットから財布を取り出す。と、番台に座っていた年配男性は、ついと顎を刳って宣った。
「チケット買って」
 視線の先には自販機がある。ラーメン屋とか学食とかで見かける食券用のと同じものだ。ただし、ボタンに書かれているのは当たり前だが違っている。
 入浴大人、入浴子供。それは予想範囲内だが、サウナとか、ガウンとかいう記載もある。しかも価格が異様に安い。
「サウナが百円?」
「何? 必要?」
 思わず零した呟きに、迷わず『入浴大人二人』を押した父が問うた。
 因みに、入浴大人は三人まで存在する上、サウナプラスもあったりする。
 しかも入浴料もサウナ同様、極めて安価だ。硬貨のみで足りるとか、冗談としか思えない。
「あ、いい。無しで」
 遠慮した訳ではない。そんな値段ではないだけに、父もそれを察したようだ。
 あっさり、そうか、と頷くと、そのまま自販機を後にした。
 再び番台に向かい戻ると、買ったばかりのチケットを置く。
 それを番台の男性が受け取り仕舞う。
「じゃ、ごゆっくり」
 え? それだけ?
 説明は? ロッカーの鍵は? 何も無し?
 綾愛の記憶にある限り、ここでは普通、色々説明されるはずである。
 だが、何もない。番台の男性は一言そう告げた後、視線を外して黙ってしまった。
 その事実に、綾愛は大いに驚いたのだが、どうやらそれは彼女だけであったらしい。
 父親の方はあっさりと受け入れ即座に歩を進めた。
 『男』と書かれた暖簾の先へと。
「じゃ、後で」
 その言葉と共に、人より高い位置にある父の頭が暖簾の向こうに消えた後、思わず綾愛は慌てて後を追おうとした。
「え? や、ちょっと……」
 だが一歩足を踏み出したところで、番台から声が掛かった。
「お嬢ちゃん、そっちは男湯」
「!!!!」
 そうだった。
 気付いた途端、かぁっと頬が熱くなる。
「ご……ごめんなさい」
 言うなり、綾愛は踵を返すと、女湯へと逃げ込んだ。
 大失敗だ。恥ずかしい。恥ずかしすぎて顔が熱い。たぶんきっと、真っ赤になってる。
「ああ、もうなんでこうなっちゃうかな」
 ちょっと呼び止めたかっただけなのに。
 もう少し、心の準備が出来るまで、一緒に居て欲しかっただけなのに。
「お父さんの馬鹿。意地悪」
 普段はとっても優しいのに、こういう時は、今少し気が廻らない。だからモテないんだと、かなり失礼かつ辛辣な事を、胸の中でだけこっそり続ける。
 それにしても、あっさりとした脱衣所だ。ロッカーは壁に並んでいるだけしかない。だからだろうか。外から想像していたよりは広い空間となっている。
 長椅子が二つに、籐の椅子が三つほど。低めの棚とテーブルが、中央部分に置かれている。一部の壁には割と大きな鏡があり、その横には体重計と給水器が並んでいた。
 他は飲み物の自動販売機が置いてある。
 その横の、ガラス戸の向こうには洗い場が広がっているのが透けて見えるが、そこに人影を見つけた瞬間、綾愛は即座に背を向けた。