絹子川奇譚 悪霊商店街に囚われた母娘 立ち読み

 
 放課後、部活が行われている時間を見計らって瞑は校内を探索した。
 傍から見ると転校生が校内を探索しているだけ。誰も幽霊を探しているだなんて思わないだろう。
 三階建ての校舎を一階から虱潰しに探す。
 一階には三年生教室の他、校長室、応接室、進路指導室があった。玄関ホールを横切った奥にある渡り廊下の先には体育館と格技場がある。ここには幽霊の少年の姿はない。
 二階には職員室と二年生教室以外に理科室や視聴覚室など移動教室に使われる教室が多く設けられている。また、美術室を覗くと美術部が絵を描いていた。しかし、ここにも少年の姿はない。
 三階は一年生教室と音楽室、家庭科室がある。廊下にはまだ残っている生徒たちがいて、二年生である瞑の姿を見て驚いたようにたじろいだ。
 この高校は制服に付ける校章のバッジと指定された上履きの色で学年を分けているから、一目見て瞑が先輩だということがわかるのだ。
 一年生の緊張した視線を感じながらも瞑は廊下を歩く。だが、ここにも少年はいない。
 ざっと校内を一周したが、少年はどこにもいなかった。
 この無駄足に瞑は深くため息をつく。
 校舎内にいないとすれば残るは校舎外だ。もしかすると、校庭にいるかもしれない。
 仕方がない、と瞑は再び校舎内を巡る。
 玄関口にたどり着いた時、瞑は白い影が渡り廊下を抜けていくのを見た。
 怪しい影の後をそのままつける。影は体育館に行くと思ったが、角を曲がって格技場に向かっていた。
 瞑が格技場の前にたどり着くと、閉ざされた入り口の前で幽霊の少年が佇んでいた。
「何しているの?」
 瞑のかけ声に少年はゆっくりと振り向く。
「もしかして、悪戯でもするつもり? 場合によっては、君を止めるよ?」
 そう言いながら瞑はポケットの中に入れている腕珠に手を伸ばした。
 警戒する瞑を見て、少年はニヤリと不気味に笑う。
「お兄さん、僕と遊んでくれるの?」
 あどけない声と同時に彼の体から黒い靄が発生し始めた。
 黒い靄は陽炎のようにゆらゆらと揺れる。その靄からは冷たい霊気を感じ、室内にいるのに寒気を感じた。この幽霊、ただの浮遊霊ではない。
 突然の変貌に瞑は身の危険を察し、彼と距離を取った。
 自分を用心する瞑を見て少年は目をひん剥いてケラケラと笑い出す。
「これはまずい」と瞑は腕に腕珠をはめて臨戦態勢を取った。
 だが、その動作の一瞬で、少年の姿がパッと消えた。
「じゃあさ、僕と追いかけっこしようよ」
 声と同時に、人影がぬっと瞑の前に現れる。
 聞こえたのは少年の声だ。だが、現れた人物は先ほどまでの短髪の少年ではない。瞑自身だった。
「……捕まえてみなよ」
 少年は瞑の顔のままあざ笑う。その声も今までのあどけない子供の声でなく、瞑の声へと切り替わっていた。
 驚愕しているのも束の間、少年は笑みを含んだまま透明になっていく。
「あ! おい!」
 瞑が駆け寄った時はもう遅く、少年は瞑の姿のまま消えていった。
 咄嗟に辺りを見回すが、少年の霊気すら感じない。
「くっそ!」
 歯を食いしばりながら瞑は頭をぐしゃぐしゃに掻く。
 迂闊だった。黒い靄がまだ小さかったので、まだ完全に悪霊になってはいない。しかし、いつ悪霊になって周りに危害を加えるかもわからない。それに、人に化けることができるあの能力はどう考えても危険だ。野放しにする訳にはいかない。
 かといってむやみやたらに校内を走り回ったところで少年を見つけることができるかというと答えはノーだ。あんな一瞬で姿を消せるような霊相手に、こんな三階建ての校内をたった一人で探すだなんて無理な話だ。
 そもそもそんな闇雲に探せるような時間があるとは思えない。圧倒的に瞑が不利だ。
 どうする? どうすればいい?
 気持ちが焦るばかりで少年を見つけ出す案は何一つ浮かんでこなかった。
 こうして迷っている間にも奴の魔の手が誰かに伸びているかもしれない。けれど、そもそも幽霊が視える人物など稀なので、頼れる相手もいなかった。
 頼れる、相手。
 そう過ったと同時に瞑はポケットからスマホを取り出し、着信履歴から電話をかけた。
 本来ならこの類いの専門家である一世にかけたいところだが、仕事中の彼が電話に出る可能性は低い。それならば、もう頼れるのは同じ状況下で育った彼しかいない。
 しばらくコールを鳴らすと、ようやく彼が電話に出た。
「……なんだよ」
 電話越しから彼─悟の気怠そうな低い声が聞こえる。
「お前、部屋の片づけ手伝えって言って─」
「今はそれどころじゃないんだって!」
 突然声を荒らげる瞑に流石の悟も驚いてたじろいだ。
「何一人で騒いでるんだよ……」
 いつも呑気な瞑がここまで焦っている声を聞いて、悟も只事でないことを察する。
「面倒事は嫌いなんだが……話くらいは聞いてやる」
 電話越しで悟が息を吐く。だが、声色が変わったので、彼の真剣さが瞑にも伝わった。
「ありがとう、兄ちゃん」
 悟に礼を言うと、瞑はこれまでの出来事を簡潔に説明する。
「─つまり、そのガキと追いかけっこするハメになったということだな」
 要約する悟に瞑は頷く。
「こんな広い校舎を一人で探すなんてキツすぎるよ……兄ちゃん、今すぐこっちに来れない?」
「行けるか阿呆。それに、俺を待つくらいならさっさとガキを探しやがれ」
「だよねー……」
 悟のぐうの音も出ないほどの正論に瞑はがっくりと項垂れる。
 藁にも縋る思いで悟に電話をかけたのに、結局解決策は見つからない。
「やっぱり勘で探すしかないのかなー」
 困って瞑は頭を掻くと、突然悟が「あ?」と何かに反応したように声をあげた。
「ちょっと待ってろ、統吾が換わりたがってる」
「統吾君が?」
 しかし、瞑の言葉にも反応がなく、電話越しでガヤガヤと雑音が聞こえる。
「やあ、瞑ちゃん。久しぶりー。統吾だよ」
 次に電話に出たのは悟よりずっと穏やかな青年の声だった。
「瞑ちゃんの転校先って木綿陸だよね?」
「う、うん」
 統吾に突然問われ、瞑は不思議に思いながらも肯定する。
「その霊って、中学生か小学校高学年くらいの髪の短い男の子じゃない?」
「え? なんでわかったの?」
 先ほどの会話から幽霊の姿を推測できるのは悟の「ガキ」という発言だけだ。これだと年齢はおろか性別すらもわからない。それなのに、統吾はしっかりと例の少年の容姿までピタリと当てた。
 ただただ驚いている瞑に、統吾は「やっぱり」と納得する。
「実は俺も何回かその子を学校で見かけたことがあるんだよね。ほら、俺も瞑ちゃんと同じ木綿高だったからさ。といっても、その後にすぐ卒業しちゃったから声をかけたことはないんだけど……まさかそんな霊だったなんて」
「そ、それで、統吾君はその子の居場所知ってる?」
 すかさず瞑は尋ねるが、統吾は困ったように「う〜ん」と唸る。
「教室だったり、音楽室にいたりと結構神出鬼没だったからね。瞑ちゃんは今どこにいるの?」
「格技場なんだけど……一瞬にしてどこか行っちゃった」
「そっかー……それならまた一から探すしかないんだね」
「弱ったもんだ」と統吾は息をついた。
 統吾と話しても瞑が不利な事態は変わっていない。やはり直感を頼りに闇雲に探すしかないのかと、瞑は諦めかけた。
 だが、途端に統吾が何か思いついたように「あ」と声を漏らした。
「そういえば、瞑ちゃんってどうしてその子と追いかけっこすることになったんだっけ?」
「どうしてって……胸騒ぎがしたというか。なんとなく放っておけなくて、その子を探して声をかけたら、こんなことになっちゃって……」
 だが、その答えを聞くと統吾の声根が変わった。
「瞑ちゃん……探してまで男の子に声をかけたってことは、その子を視たのって今日が初めてではないでしょ?」
 その言葉を聞いて瞑は「え?」と目を見開く。
 瞑がここまでして少年のことを気にかけたのには理由がある。
 統吾はそれをわかっていた。
「その子が何かしようとしているところを見ていたんじゃない?」
「何か……しようとしてた?」
 統吾の言葉を繰り返しながら、瞑は昨日のことを思い出していた。
 昨日、少年は何かを企むように浮遊していた。
 その時、彼は何を眺めていたか。
 その時、彼以外に何が見えていたか。
「……ありがとう、統吾君」
 頭の中で絡まっていた糸がするりと解けた時、瞑は統吾に礼を言っていた。
「うん、頑張って」
 統吾のその声を最後に、瞑はそっと電話を切る。
 やってやるよ、この野郎。
 瞑は口を閉じたまま、渡り廊下の天井をキッと睨みつけた。
 その眼差しにはもう迷いはなく、凛とした果敢なものであった。

 完璧だ。
 窓に映る自分の姿に少年は自画自賛した。
 短い黒髪に大きな瞳を持つはっきりとした目鼻立ち。どこからどう見ても千倉燿の姿だ。この姿なら彼女に何も疑われることなく近づける。
 扉の戸窓から二年一組の教室を見ると、流花が自分の席で勉学に励んでいた。セミロングの髪を耳にかけながら真剣な表情で教科書を眺めている。だが、問題に詰まっているのか一向にシャープペンシルは進まない。
 ふと時計を見上げ、流花は息をつく。そして休息を取るようにぐっと腕を伸ばした。
 集中力が途切れたタイミングを見計らって少年は教室の扉を開ける。
 教室に入ると流花は驚いたようにビクッと肩を浮かせた。
「お疲れ」
「よ、燿君? 随分部活終わるの早いね」
 目をぱちくりとさせながら流花は少年を見る。彼女がまんまと彼のことを「燿君」と呼んだことから、順調に事が運んでいると少年は確信した。
 燿の姿に化けているとはいえ、彼自身が霊体であることは変わりない。そんな彼をこんなにもはっきりと認識しているということは、少年の読みは正しかったのだ。彼女と自分の波長は、ピッタリと合っている。
 化ける相手を燿に変えたのも的確だったと少年は感じていた。昨日二人は仲睦まじく話していた。友人の前ならば流花もなおさら警戒心がなくなるだろう。あとは流花に怪しまれないように適当に会話を合わせるだけだ。
「今日、先生が用事あるっていうから早く解散したんだ」
 扉を閉めながらそう言うと、流花は「そうなんだ……」と笑う。
「何それ、課題やってたの?」
「あ、うん……家より教室のほうが集中できるから」
「へー、頑張るな」
 自然な会話の流れを意識して、少年は彼女を労う。流花は「え?」と意外そうな声をあげたが、彼女に言葉を紡がせないように少年はさらに続ける。
「でも、こんな時間なんだからさっさと帰ろうぜ」
 ニッと口角を上げながら少年は流花に帰宅を促す。
「そうだね。燿君が帰るなら……私も帰ろうかな」
 流花は少年の言葉に素直に従い、ノートと教科書を閉じて自分の鞄にしまった。
 そんな流花の背後に少年はそろりと張りついた。
 僕の勝ちだね。
 少年はニヤリと笑う。
 少年は徐に腕を流花の首に伸ばす。